小学生のころ、まひろは「6年3組レモン色」という小説が好きだった。
少女向けの雑誌に連載されていたことは覚えているけれど、内容はまったく覚えていないし、今思うと、「レモン色って」と笑ってしまう。
だけど、あのときの春の空気の匂い、期待にふくらむわくわくした気持ちと寂しいような、切ないような気持ち。自分を取り巻く日常のすべてを、その連載小説のタイトルが表していたことは覚えている。
今、まひろは派遣社員として、小さなネット通販会社でオペレーターをしている。オペレーターと言っても、昔の事務回りはなんでもこいの雑用係と言い代えてもいいくらい。新宿の半世紀を生き抜いた雑居ビルの一角に、週に5日通っている。
コロナで一時期仕事がストップしたときは本当に青ざめた。自分もお弁当をもらいに、あの行列に並ばなくっちゃと思ったけれど、いきなり活況を呈した通販業界から声がかかり、生き延びることができた。もちろん貯金は激減。あとひと月もつかなと思っていたときだった。
なぜ、6年3組レモン色を思い出したかといえば、通販の商品の中に、黄色の絵を見つけたからだ。ステイホーム!とテレビが叫ぶ中、誰かが部屋に黄色の絵を飾りたくなったのだろう。
ふんわり黄色の空気の中にたたずむ女性の、つばの広い帽子は、まさにレモン色。思わず声が出た。
「まひろちゃん、何?ミスった?」
隣に座って営業資料を作っていたケイが、まひろに顔を向ける。
「あ、いや、すみません。なんでもないんです」
「そう、何かあったらなんでも言ってね。今はまひろちゃん頼みだからさ」
ケイはマスク越しにもわかるほど、にっこり笑ってまひろを見た。
この人は、とまひろは考える。
とてもいい人で、肌もきれい。考えていることはまともだし、話もおもしろい。年の頃は30代前半か。着ている服はファストファッションだけど、その分、美術館の年間パスをいくつも持っていて、毎週各地の美術館を巡っているという。ここの通販会社は東京の私立大学を卒業して以来2社目で、時期を見て起業したいと考えているらしい。
まひろが勤めて半年。別に情報収集に長けているわけではなく、ケイ君が自分のことをペラペラ話したにすぎない。そう、ケイ君はいい人で素敵な人なのだ。残念なのは、ケイ君には恋人がいて、それがこの会社の社長ということ。
泉社長は40代半ばのイケオジ。出版社に勤める奥さんと、中学生のお嬢さんがいる。(これもケイ君が話してくれたこと)
もちろん妻子は、社長とケイ君の関係は知らない。そんな大人の事情をつらつら考えていると、ふと6年3組時代が懐かしくてたまらなくなる。
まひろは実際に6年3組だった。あのときは、こんな大人な事情なんて夢にも思わなかった。
「その絵…」
「?」
「その絵、黄色い帽子の絵」
「あ、はい。あ、これ、きれいな絵だなと思って…」
「きれいな絵、かな?」
「はい、えーと、少なくともわたしはきれいな絵だと…」
「それ、ぼくがイズミさんから最初にプレゼントされた絵とおんなじだ」
「…」
「マリーローランサン風の帽子の女性。ぼく、ものすごく嬉しかった」
ケイ君はにこにこしながら話していたけど、マスクから見えている目は悲しげだった。
「この絵をもらったとき、ぼくには年下の女の子の彼女がいたんだけど、イズミさんに強烈に惹かれて別れちゃった」
「え?ケイ君、彼女いたの?」
「そう。ああ、女の子が好きだったのかってこと?っていうか、別に女性とか男性とか関係なく好きな人は好きっていうだけだよ。まひろちゃんは違うの?」
「えーと、うーん、よくわからないです。でも、えーと、ケイ君は女性でも男性でも、好きなら、えーと、身体も許せる?っていうか、難しいな、なんて言えばいいのかな」
ケイ君はけらけら笑うと、キーボードを打つ手を完全に止めた。
「全然難しくないよー。そうだよ、好きなんだもん。好きになった相手がたまたま同性だっただけで。たまたま勤めている会社の社長だったってだけで。国籍も性別もあんまり考えたことないなあ」
そんなもんなのかな。
まひろは小学生の頃から、「好き」の対象は男の子だった。6年3組のときに好きだったのは片岡賢二君。周りの女の子たちに煽られて、バレンタインにうっかり手作りチョコを渡して玉砕した。それがトラウマになって、自分から告白というものをしたことがない。
なんとなく飲みに行って、なんとなく寝て、なんとなく一緒にいて、しばらくしたら連絡がとれなくなってを繰り返した。
ケイ君は違うのかな。
「ケイ君の恋はいつも情熱的なの?」
「まひろちゃんはおもしろいね。そんなわけないじゃん。ただイズミさんはちょっと違ったな。まあ、その絵だって別に高価なもんじゃないし、イズミさんとしてはきっと何気なくくれただけなんだろうけど。だけど、そのときのぼくのタイミングがこの絵にぴたっと合ったんだ」
「タイミング?」
「そう。ちょうど季節は春でさ。冷たい雨が上がった後、ふんわりあったかい風が吹いて、電車に乗ったら、土手の菜の花が目に入ってさ。
会社に入ろうとしたときに、ばったり会ったイズミさんが、ぼくにこの絵をくれたんだ。今この絵を買ったんだ。きれいなレモン色の帽子でしょ?ケイ君にあげるよって」
まひろはケイ君の顔をじっと見た。レモン色って言った?
「イズミさんの言葉は、ぼくのそのときの気持ちにぴったりでさ。その瞬間、ぼくはイズミさんが大好きになった」
ケイ君は、またパソコンに向かうとマウスを握る。
「恋する瞬間ってあると思うんだよね。あ、今この人好きって瞬間。ぼくはこう見えてあっさりしてるんだけど、何度かそんな瞬間を経験してる。その相手がどんな人でも、ぼくが好きだと思ったら好きなんだ」
「社長のこと好きなんだね」
「好きだよ。だけど、ちょっともうそろそろいいかな」
「え?」
ケイ君は余裕の微笑みをまひろに向ける。マスク越しに微笑みまで伝えられるケイ君はすごいと、妙なところに感心してしまう。
「もういいって、もう好きじゃないってこと?」
「だから好きだよ。だけど、身体を合わせたり、家族を気にしたりするじゃない?そうすると、レモン色の世界が日常の色になってくるじゃない?そういうの、もうちょっといいかなって」
「日常はレモン色にはならない?」
「ぼくはね。イズミさんと一緒にいれば、あのレモン色の世界にいられるかなと思ったんだけど、やっぱり無理かな。当たり前だよね」
「またレモン色になれるかもよ」
「うーん、そうかもね。でも、ぼくは今レモン色じゃないんだ。こうやってまひろちゃんと話してたら、気づいちゃった。ぼくが今求めてる世界はレモン色じゃない」
「じゃあ何?」
「わからない。ぼく、会社やめるよ」
「え?」
ケイ君はマウスを放り出す。
「会社やめる。決めた」
「わたしのせいかな?」
「なんで?まひろちゃんには関係ないよ」
「社長とのこと、しんどかったの?」
ケイ君はまひろをじっと見た。
「そうなのかもしれない。ぼくは自分が全然こだわらない人間だと思っていたけど、ほんとは辛かったのかもしれない」
「また、会える?」
まひろは自分の言葉に自分が驚いた。自分はケイ君に会いたいのか?
ケイ君もまひろを不思議そうに見た。
「まひろちゃん、ぼくに会いたいの?」
答えに詰まって目をそらしたまひろに笑いかける。
「きっと会えるし、連絡するよ」
まひろの鼻先を、換気のために細く開けた窓から、ふんわりした春の匂いが通り過ぎた。レモン色の風は、6年生からだいぶたった今でも吹いていると思ったら、まひろの心はあたたかくなった。